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三木清『人生論ノート』ノート

 

人生論ノートについて

年初めの読書として、三木清『人生論ノート』を選択しました。

人生論ノート (新潮文庫)

人生論ノート (新潮文庫)

 

色々なテーマを元に書かれた、哲学ノートです。

テーマは、「幸福について」や「虚栄について」といった、一般的かつ普遍的なもの。

なんとなく、実用的な文章より、こういった抽象的な文章を読む方が、新年一発目の読書にはふさわしいと思いまして。

 

元々は、以下のブログで知ったものです。

hint.hateblo.jp

 

70年前の本ですが、とても面白くて刺激的。

上記のブログも含めて、色んな人が引用したり紹介したりしていますが、私も各項目から、一箇所ずつ引用してみることにします。

全部で23項目です。

松岡正剛氏とかも同じことをやっているので、それらに及ぶべくもないのですが、あえて見る前にやりました…(かぶっていたら偶然)。

そうしないとたぶん、重なってしまう。

1550夜『人生論ノート』三木清|松岡正剛の千夜千冊

 

『人生論ノート』ノート

死について

私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼等と再会することができる-これは私の最大の希望である-とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。

 

幸福について

幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。

 

懐疑について

いずれにしても確かなことは、懐疑が特に人間的なものであるということである。(中略)懐疑は天使でもなく獣でもない人間に固有なものである。人間は知性によって動物にまさるといわれるならば、それは懐疑によって特色附けられることができるであろう。実際、多少とも懐疑的でないような知性人があるであろうか。そして独断家は或る場合には天使の如く見え、或る場合には獣の如く見えないであろうか。

 

習慣について

一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといわれる。しかし実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。(中略)習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによって破られる。(中略)一つの形を真に克服し得るものは他の形である。(中略)情念は形の具わらぬものとして自然的なものと考えられる。情念に対する形の支配は自然に対する精神の支配である。習慣も形として単なる自然でなく、すでに精神である。

 

虚栄について

虚栄は人間的自然における最も普遍的な且つ最も固有な性質である。虚栄は人間の存在そのものである。人間は虚栄によって生きている。虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なものである。

 

名誉心について

虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間的であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。

 

怒について

すべての怒は突発的である。そのことは怒の純粋性或いは単純性を示している。しかるに憎みは殆どすべて習慣的なものであり、習慣的に永続する憎みのみが憎みとかんがえられるほどである。(中略)怒が突発的なものであるということはその啓示的な深さを語るものでなければならぬ。

 

人間の条件について

どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。自己は虚無の中の一つの点である。(中略)生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生とのように異なっている。しかし虚無は人間の条件である。

 

孤独について

いかなる対象も私をして孤独を超えさせることはできぬ。孤独において私は対象の世界を全体として超えているのである。

孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤独を知らない時である。

 

嫉妬について

功名心や競争心はしばしば嫉妬と間違えられる。しかし両者の差異は明瞭である。先ず功名心や競争心は公共的な場所を知っているに反し、嫉妬はそれを知らない。嫉妬はすべての公事を私事と解して考える。

 

成功について

成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

 

瞑想について

思索は下から昇ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである。それは或る天与の性質をもっている。そこに瞑想とミスティシズムとの最も深い結び附きがある。瞑想は多かれ少かれミスティックなものである。

 

噂について

噂はあらゆる情念から出てくる。嫉妬から、猜疑心から、競争心から、好奇心から、等々。噂はかかるものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。-熱情をもって語られた噂は噂として受け取られないであろう。-そこにいわば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行われれる。神話は高次のフィクションである。

 

利己主義について

利己主義者は期待しない人間である。従ってまた信用しない人間である。それ故に彼はつねに猜疑心に苦しめられる。

ギヴ・アンド・テイクの原則を期待の原則としてでなく打算の原則として考えるものが利己主義者である。

 

健康について

「健康そのものというものはない」、とニーチェはいった。これは科学的判断ではなく、ニーチェの哲学を表明したものにほかならぬ。「何が一般に病気であるかは、医者の判断よりも患者の判断及びそれぞれの文化圏の支配的な見解に依存している」、とカール・ヤスペルスはいう。そして彼の考えるように、病気や健康は存在判断でなくて価値判断であるとすれば、それは哲学に属することになろう。

 

秩序について

秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。ひとは温かさによって生命の存在を感知する。

 

感傷について

あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。

 

仮説について

仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。仮説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理そのものが一つの仮説であるということもできるであろう。仮説は自己自身から論理を作り出す力さえもっている。論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。

 

偽善について

現代の道徳的頽廃に特徴的なことは、偽善がその頽廃の普遍的な形式であるということである。これは頽廃の新しい形式であるということである。これは頽廃の新しい形式である。頽廃というのは普通に形がくずれて行くことであるが、この場合表面の形はまことによく整っている。そしてその形は決して旧いものではなく全く新しいものでさえある。しかもその形の奥には何等の生命もない、形があっても心はその形に支えられているのでなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。

 

娯楽について

娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。

 

希望について

希望というものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きている限り希望を持っているというのは、生きることが形成することであるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する。生命の形成力が希望であるというのは、この形成が無からの形成という意味をもっていることに依るであろう。運命とはそのような無ではないのか。希望はそこから出てくるイデー的な力である。希望というものは人間の存在の形而上学的本質を顕すものである。

 

旅について

旅は過程である故に漂泊である。出発点が旅であるのではない、到着点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。(中略)日常の生活において我々はつねに主として到達点を、結果をのみ問題にしている、これが行動とか実践とかいうものの本性である。しかるに旅は本質的に観想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の実践的生活から抜け出して純粋に観想的になり得るということが旅の特色である。旅が人生に対して有する意義もそこから考えることができるであろう。

 

個性について

自己を知ることはやがて他人を知ることである。私達が私達の魂がみずから達した高さに応じて、私達の周囲に次第に多くの個性を発見してゆく。自己に対して盲目な人の見る世界はただ一様の灰色である。自己の魂をまたたきせざる眼をもって凝視し得た人の前には、一切のものが光と色との美しい交錯において拡げられる。

 

以上です。

 

 

おわりに

正直、理解が追いついていない項もありますが、今の自分の理解できる範囲で、読み込んだ結果として残しておきます。

頭の体操として、折に触れて読み直したいと思います。

毎年、年始に読むのがいいのかなー。

おしまい。

 

人生論ノート

人生論ノート

 

青空文庫にあることを今、知ったでござる…。